M邸修景工事 須坂市

三善 修景img058明治初期 横浜開港地 治外法権で 関税自主権のなかった 関内に 縁あって支店があったという 豪商のこの本店は 地域社会において 絹売買の 証券取引所としての機能を有し 大笹街道を経由して 山の裾の街道を進み 横浜まで 一直線につながっていたのである。この 中仙道を直角に横断する 水平移動に適った 裾野街道は 馬を活用した荷駄の運送業により担われていた。時の江戸幕府 若年寄の 堀直虎公は いまでいう 外務大臣であり 時代の開国の必要を 徳川慶喜に奏上し 果たさずして 厠で 自殺したが ときの 勝海舟をして あの 秀才がなぜ早まったのかと なげかせたという人物を 須坂市は 輩出していたのである。 リアリテイを 直視して生きることを 第一に 尊重しててきた風土でなければ 決して育ちはしなかったであろう 地域地区であればこそ 横浜関内と 絹産出の里とを 結び 海外との 取引を 大胆に 推し進めようする気概は生まれまい。かの北大のクラ-ク 先生も 少年よ大志をいだけ などと ご託宣を垂れていたのではない。少年よ 野心をいだけと 宣教していたのである。このMの屋号をもつM家は 大隈重信から卒業証書を手渡しされた卒業生をもち 土蔵にある 葛飾北斎の収集では 天下一であり かつて 日ソ友好条約締結記念に ソ連の要請で 葛飾北斎の展示のために 高崎辰之助から 白羽の矢が立ち 日本の面目をほどこすことができたことを いまや 知る人も少なくなってしまったので あえて ここに これを 記す 次第である。なを 現当主は らんの栽培を趣味としており 世界らん大会で 最優秀賞を獲得したほどの 品種の選抜と栽培の技能を有していることもあわせて記しておきたい。なを 旧街道沿いには ぼたもち石という 3次元立体石積み工法による 土台のための石垣が現存し かつては その 前を小川が流れ 正面けやき 一枚板の門前には 石の太鼓橋が かかっていたのであるが 度量の広かった父上が ほしいという人に いいや もってけや として 今は 残念ながら 失われてしまっている。南側敷地を 須坂病院に提供しなかったら 現代の須坂病院は生まれなかったのである。かつての資料は 横浜三渓園にあると聞くが 確かめるチャンスがめぐってくることを 老後の楽しみにしたい。